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自信を身につける方法

10代までに負った小さな傷が、ずっと残ったままの人は少なくない。仲の良かった友だちに突然にそっけない態度をとられたり、自分のコンプレックスを周りに指摘されたり、好きな人に裏切られたり。些細なことかもしれないが、これらの出来事は子どもにとって大きな意味を持ち、その後の成長にも大きな影響を与える。

残念なことに大人になると「さらけ出す」ことは、どんどん難しくなっていく。本当は自信がないのに強がってしまう人は多いし、必要以上に自分を取り繕って生きている人も案外多い。そんなバレバレの傷を隠しても辛いだけだとわかっていても、簡単には逃れられない。さらけ出せない自分に対して、余計に虚しさを感じてしまうというのに、なんて皮肉なジレンマだろうか。

恐らくこれを書いた人も、子どもの頃に負った小さな傷が癒えぬまま大人になったのだろう。感情がそのまま文字になったような文章で少し揺さぶられた。

「人に変な風に見られたくない」「人がこわい」と思うようになりました。
自分の中では「そんな昔のこと気にしていないよ!」と高を括っているつもりでした。しかし、自分に注目が集まる場面で顔が真っ赤になってしまう、声が震える、ときには泣いてしまうなど『普通じゃない』自分がいる事に気付きました。
私は人に嫌われたくない『良いかっこしい』の自分が小学生のときから消えないまま図体だけが大きくなってしまったのだな思いました。

引用元:“自分”が無い私


面白いことにちょうど同じ日に、この投稿の答えとなるような投稿も見られた。

私は恐ろしく自己評価の低い人間だった。周りの目最優先で行動を決めていたし、全てにおいて「私にはできない」と思っていた。
 
そして、心のバランスはあっという間に崩れた。20数年の人生における節目節目で心の崩壊現象は起こり、特に思春期は悩まされた。
 
20代になってもそれは再び起きたため、当時初めてできた相談相手に心の裡を恐る恐る明かした。するとその人はこう言った。
 
「何でもいいから、成果を可視化しろ。読書記録でも、映画記録でも、そんなんでいいから」

(中略)

1つ1つ記録していって、10、20、30と増えていくと「私はこんなに見てきたんだ」と自信を持って思えた。今まで何となく読書好き、映画好きと思っていたが、その根拠ができたのだ。
 
今までの「何もできないダメな私」の根拠より、見重ねてきた本や映画の記録という根拠の方がしっかりしていた。何もない人間に、何かができた。こんな小さなことで、私はわずかながらに自信を持てた。

引用元:自分を認める方法


 「記録を残して成果を可視化する」。これは自分の経験を省みても、とても重要なことだと思う。もちろん根拠のない自信を持つことは大事だが、元から自信を持たない人に「根拠のない自信を持て!」といったところで何も変わらない。彼らにはわかりやすい成功体験が必要だ。朝早く起きるでも、毎日5分間日記を書くでも、どんな些細なことでもいいから一つひとつ積み上げていく、そしてそれらを目に見える形で残していく、そういうことが自信を取り戻すためには必要不可欠なのである。

自信というのは筋肉のようなものだ。使うほどに膨らんでいくし、使わないほどに衰えていく。ある意味、一生鍛え続けなきゃいけないものなのかもしれない。もちろん鍛えていく過程において、自分との対話の仕方も重要になってくる。「決めたことができない私って本当にダメな人間」なんてことを思う人はダメな人間になっていくし、「今回はできなかった。じゃあ次にどう生かせるか」という風に考えられる人は成長していける。

だから、自分と交わした小さな約束を守り続けること、その証を目に見える形で残していくこと、そして、自分との建設的な対話を習慣づけることが自分を信じる力=自信を身につけていく上では欠かせないのではないだろうか。