ふむふむ

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配慮のような不寛容、寛容のような無関心

ここ最近Twitterを眺めていて、配慮のような不寛容が多く見られる。例えば、先日起きた大阪での震災。被災された方々が大変な状況下では、サッカーで盛り上がることもいけないことらしく、「不謹慎だ」と批判する人(いわゆる、「不謹慎厨」)も見られた。

相手の気持ちを推し量って、言動を選ぶことはとても重要なことだ。だけど、誰の気持ちも推し量っているわけでもなければ、実際に当事者に聴いたわけでもないのに、「配慮」という大義名分の下で、誰かを攻撃するのはおかしい。彼らの主張を観察していくと、大半が自分がただ気に食わないだけだったりする。

不謹慎厨の不寛容さを顧みるに、寛容さはとても大切な要素に思える。というのも、SNSはいろんな価値観があらわになる場だからだ。自分の好きなものが誰かにとって嫌いなものだということは大いにあるし、その逆もまた然り。それぞれの好き嫌いを対立させ、争うことも多々ある。

しかし寛容なように見えて、実は無関心なだけのこともある。そういう無関心さもときに大きな争いを生む(「●●もわからないなんてありえない!」みたいな批判をよく見ないだろうか)ので、健全とは言えない。僕らには相手の意見や存在に関心を持ち、認め、受け入れていく器が必要だ。

こうして考えていくと、一見すると相反しそうな配慮と寛容は、ある点では全く同じ要素を持ち合わせている。それは「相手への思いやり」だ。配慮は相手の気持ちを推し量ること、寛容は相手の意見や存在に関心を持つことから始まる。配慮と寛容の根本を理解すれば、その両方はバランスよく持てるはずだから、不謹慎だと叫ぶ人や無関心な人はぜひ考えてみてほしい。