ふむふむ

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教育における性善説と性悪説

性善説を信じて任せるのか、性悪説を踏まえ厳しくするのか。教育においてこの議論は盛んに行われてきているが、そもそもこんな議論には意味がない。というのも、人には善の部分もあれば、悪の部分もあるからだ。もっと言えば、善の部分を活かしつつ、悪の部分を抑えるのが、教育の役割だからだ。

現状、日本の公教育は性悪説的なシステムで回っている。授業の内容は文科省によって決められ、生徒の主体性に任せることはない。あらゆる科目(道徳も含む)において画一的な正解を設定し、それ以外の答えを出す生徒は矯正していく。このモデルは一定水準の従順な人間を育てることには成功した。が、そうした人材が必要な時代はもう終わってきていることは、累積している課題を見ればわかるだろう。

だからこそ、文科省は「主体性」やら「思考力」やら「表現力」やら、もっともらしいことを並べ、教育改革だなんだと騒でいるのだ。しかし、現状の教育改革案を見る限りでは、結局表面的な制度を変えたり、科目を増やしたりするだけで、根本的な文化を変えようとする気概はほとんど見られない。本当に主体性を伸ばしたいなら、道徳の科目化なんてバカげたことは絶対しないし、生徒がある程度授業を決められるようにするし、判断・表現をする実践の場を求めていくはずだ。結局、文科省は生徒の「主体性」なんてものは信じていないのだ。

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上手くいっている組織は性善説で回っている。星野リゾートにしろ、Googleにしろ、会社のリーダーが最も重視しているのは、社員の主体性を最大限に引き出すことだ。社員が自分で課題を設定し、試行錯誤を繰り返し、改善できるようしていくこと。

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もちろんこれは、ただ任せてほったらかしにするような放任主義とは似て非なるものだ。ここを抑えないまま性善説で教育を行っても、上手くはいかない。当たり前のことだが、黙っていても人は主体性を発揮しないのだ。


リーダーは主体性の使い方を間違わないようにビジョンをしっかり提示しないといけないし、主体性が発揮されるための環境づくりをしていかないといけない。つまり性善説での仕組みづくるためには、ある種性悪説的な教育(人は任せただけで主体性を発揮しないという前提)が必要となるのだ。