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文法も構成も内容も気にせず、1時間で書くブログ

「バカ」だと思うだけでもアウト

教育(マネジメント)に関わる人にとって、生徒(部下)のモチベーションの維持は死活問題だ。怒ったり、貶したりばかりしていれば、生徒のモチベーションは下がり、能力は伸び悩んでしまう。

 

生徒をバカにすることは絶対にしてはいけないし、なんなら内心そう思っているだけでもアウトだ。その思いは言葉となって表れてくることもあれば、姿勢となって伝わってしまうこともある。

 

もちろん、バカな人をバカと思わないようにすることそう簡単なことではない。世の中には、どうしようもないバカは少なからず存在する。しかし、他人をバカにする頻度は確実に減らすことはできる。

 

例えば、「バカ」と「無知」を分けて考えるクセをつけること。眼の前のバカな行為の原因が、バカ(意地の悪さ)から来るのか、無知(単に知らないこと)から来るのかを考えることだ。

 

また、生徒を比べないようにすること。「しっかり人の話を聞いて、成績も優秀で素直な『あの子』」を基準に、他の生徒を比べてしまうと、どうしてもバカが生まれてしまう。みんな「あの子」とは違うのだから、それぞれの人の特性をちゃんと視ていかないといけない。

 

あとは一部のバカを、全体化しないようにすること。「数学ができない」=「バカ」という風に決めつけてしまうと、国語や英語といった他の科目だけでなく、スポーツや優しさ、発想力の高さなどの側面が見えなくなってしまう可能性がある。1人のバカを見て、その1人が属している集団そのものをバカにするというのも同様に良くない。

 

このように「バカ」は意識次第で、確実に減らせるものだ。生徒を簡単に見下すような人は生徒からも「バカ」と思われてしまいがちだ。生徒の姿勢も見てみると、自分がどのくらいの教育・マネジメント能力を持っているかを知ることができるはずだ。

いい加減、就活テクニックみたいなのやめません?

「就活は嘘つき合戦だ!」

 

などと言う人は就活を1ミリもわかっていないと思う。就活で嘘をついて内定もらっても、マッチングは失敗している。実際に雇われたあと、嘘の自分と本当の自分との間に大きなギャップが生じてくるはずだ。

 

「高給・安定・世間体・週休二日」ばかり見ている人からすれば、内定さえもらえればどうでもいいのかもしれない。申し訳ないが、そんな人たちに向けて書いていないから、「戻る」ボタンを押してもらうといい。

 

そうじゃない人ーやりがいを持って仕事をしたい、幸せな気持ちでいたい、成長したいというに思っている人ーは、少し考えてみてほしい。嘘をついて得することは1つもないことがわかるはずだ。

 

僕は就活は自分と相手の夢(目標)を語り合う場だと思っている。「私はこういうことをやりたい。あなたのその夢に共感したので、一緒にやっていきたいと考えている。その際に、私のこの能力が生かしてこんなことをやりませんか」ということを語り合っているだけ。その結果として「あなたのその夢いいですね、一緒に叶えていきましょう」と合意して生まれるのが、内定だ。

 

このことを踏まえていれば、嘘や小難しいテクニックは必要なくなる。淡々と自分のことを分析し、自分と同じ夢を持つ人(会社)がどこにいるのかを探し、しっかりと語り合う準備をするだけだ。それ以外は何もいらない。

 

現に僕は第一志望の企業に入社して、念願のライター・編集者として働いているが、面接の際には1つも嘘をつかなかった。就活に関する本や講座も受けたこともないので、テクニックも知らない。ただ、丁寧に心を込めて一言一言話し、一言一言に耳を傾けた。

 

だから就活テクニックみたいなものを見ると、それが本質から離れているような気がしてならない。自己分析のテクニックならわかるが、「こう聞かれたらこう返そう」みたいなものは全くもって意味がわからない。正解はいくつもあるのだから、参考書通りの回答じゃなくて、不器用でも自分の言葉で語った方が相手もちゃんと聞いてくれるはずだ。

『幸色のワンルーム』の放送をめぐる議論について

テレビ朝日が、7月放送開始予定の連続ドラマ『幸色のワンルーム』の放送中止を決定した。放送が決定したことを報じる記事に、多くの批判が寄せられたからだ。

同作品の原作は、はくり氏による漫画。2017年2月から無料漫画サイト「ガンガンpixiv」で連載され、累計閲覧数は2億回を突破し、コミックス1~4巻は累計75万部に及ぶ。


話の内容は引用にて紹介する。

14歳のある少女は、声をかけられた青年に「誘拐」された。少女と誘拐犯の青年は寄り添う生活で心を通わせ、徐々に絆を深める。生活に慣れると少女は「二人で逃げ切れたら結婚しよう、捕まったら一緒に死のう」と提案し、「結婚」を前提として「同居生活」を始める。

引用-Wikipedia

 

家庭での暴力や学校でのいじめにあい、生きる希望をなくした14歳の少女は、死の直前にマスクの男に救われます。行き場のなかった少女は、生まれて初めて好きだといってくれたマスクの男に、そしてマスクの男はこんな自分に感謝してくれる少女に、興味を持ち始めます。

少女は、両親につけられた名前を捨てて、「お兄さん」と呼ぶマスクの男につけてもらった「幸せになるように…幸(さち)」の名前に縋(すが)って、逃避行を始めます。それは、少女にとっては一縷の望みをかけた生活の始まりでした。極限状態の中、生と死のはざまで揺れながら、葛藤しながら、少女は束の間の幸せを探し求めていきます。

 引用-朝日放送テレビ

 

『幸色のワンルーム』は誘拐を本テーマとしていない

上記2つの引用は意味合いがかなり異なる。Wikipediaでは「誘拐されたが一緒に生活しているうちに絆を深め、恋に落ちていくような物語」に見えるが、朝日放送テレビでは「生きる希望を失った少女が青年に救われ、葛藤のなかでともに過ごしていく物語」に見える。

この2つの引用から見て取れることでもあるのだが、今回の議論ではそもそも物語の内容を理解していない人が多いなと感じた。おそらく、原作を読んでいない人が「誘拐」というキーワードに反応して、思い込みで意見をしている人も一定数はいるのではないか。

そこでまず押さえておきたいのが、『幸色のワンルーム』は誘拐を本テーマとした物語ではないということだ。ぼくは原作を全て読んだが、それぞれ問題を抱える少女と青年が共犯(誘拐を黙秘する少女・誘拐をする青年)関係を通じて、自己再生していく物語のように感じた。もちろん、原作自体がまだ終わっていないので、決まったわけではないが、少なくとも現時点では誘拐を肯定するような内容ではないのは確かだ。まぁ残念なことに、否定もしていないのだけど。

 

『幸色のワンルーム』の何が問題なのか

 『幸色のワンルーム』を巡る議論においての論点は大体以下のようなものだ。

 

・誘拐を助長するのではないか

・実際の事件をモチーフにしているのではないか

・誘拐事件が散見される今、被害者の気持ちを考えるべきではないか

 

これに関して以下のような反論が挙がっている。

 

・誘拐を助長するという根拠がない

・作者は実際の事件をモチーフにしていないと証言している(※ソース不明)

・フィクションである(これがダメなら、『万引き家族』や『Mother』などもダメになる)

 

議論は個人の価値観に左右されてしまう

 

上記の議論を見ていて、これはもう水掛け論にしかならないだろうと思った。というのは、どれも確固たる論拠がなく、個人個人の意見(価値観)によって左右されてしまうものばかりだからだ。


なので、個人個人にせめて考えてもらいたいのは以下のようなことだ。

 

・議論するなら原作を読む(思い込みで語るのは良くない)

表現の自由を抑圧をすることによって、生まれる反動にも想像力を働かせる(以下を参照)

・問題意識が自分にとっての不愉快さからくるものなのか、被害者への配慮からくるものなのかはしっかり考える(※)

 

※被害者でもなければ、被害者に聞いたわけでもない人が、被害者の声を「代弁」するのは微妙なところ。間違った想像力を働かせて、あらぬ方向から被害者を余計に苦しめてしまう可能性も大いにあるので、論拠を持った配慮なのか、自分の意見なのかはしっかり整理すべき。

 

以下、個人的に興味深いと思ったコメントを引用して、ぼくからの意見は終わりとさせていただく。

 

 

「編集」ってなんだろう?

「編集ってなんだろう?」としょっちゅう考えるけれど、いつも暫定的な答えしか出せない。会社の面接のときも「編集において大切なことは何だと思うか?」という質問を受けたが、その回答にはあまり納得はしていない。

当時、僕が答えたのは以下のような内容だ。

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編集において大事なのは「80点以上を取り続けること」です。記事1つ1つに得点が付けられると仮定して、その平均が80点以上になるようにすること。メディアの目的を果たし、読者のニーズを満たし、情報に誤りがなく、文法上の問題や誤字脱字などがない状態が80点くらいなのかなと。もちろん、100点、120点を目指していくのは当たり前なんですけど、100点以上のものはそう簡単には出ません。
 
もし仮に普段90点近く取り続けていても、ある1つの記事が炎上すれば、それが-1000000点になってメディアとしての平均点が30点くらいになることもあります。時間があまり取れないようであれば、70点、60点……と気付かぬ内にどんどん平均点が下がっていくこともあります。なので、常に「この記事は80点以上取れているか(マイナスにならないか)?」という意識を持って、記事を編集・確認していくことが重要なんじゃないかなと思います。
 
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たしかに編集をうまく表している部分もあるかもしれないが、あまり本質的な内容ではないなと。「で、編集って何のためのものなの?」「100点以上の編集になるためにはどうすればいいの?」と聞かれたらうまく答えられる自信がない。

2年ほど編集に携わっている友人は、「編集はレシピだ」と言っていた。何を作るか(テーマ)を決めて、どの食材を選び(ネタ、あるいは、リソース)、どんな風に調理し(切り口・企画)、どう盛り付けるか(見せ方・届け方)を考えるのが編集だ、と。これも編集をうまく言い表していると思う。でも、結局良いレシピってなんなんだろう。

僕はずっと「編集」の輪郭をなぞっているだけで、その正体をちゃんと掴めていないのだ。「これこそが編集だ」と思えるものが見つかったとしても、1カ月もしないうちに「これはどうなんだろう?」と疑念が湧いて、ぐるぐる堂々巡りをする。これはもう数え切れないほどある。
 
だから、もう諦めた。僕には「編集」がわからないから、素直にいろんな人の「編集」を聞いてみようと。そんな風に思っていた矢先、こんな記事がTLに流れてきた。

note.mu 


記事の内容は、フリーのライター・編集者として働いているくいしんさんが、自身の編集ブティックを立ち上げるというもの。この記事のなかで、こんな文章があった。
 
僕らにはまだ「編集とはなにか」その答えが完璧には見つかっていない。それはことによると永遠に解けない謎かもしれない。だが、希望はある。僕らは貪欲に、あくまで地道に謙虚に、その地平を進むことをやめない。


「あぁ、そうだよな」と思った。

自分よりも遥か先に進んでいる編集者ですらわからない。それくらい「編集」というものは、多様な意味を持ち、変化していくものだ。でも、少しずつその輪郭や感触は明らかになってきている実感はある。

だからこそ、無理に「編集とは〜〜だ」と決める必要はないのだ。「これも編集なんじゃないか、あれも編集なんじゃないか」と考えて、たまにわかった風になったり、すぐにわからなくなったり、そういうことを繰り返していけばいいのではないか。

僕にはまだ「編集」はわからないけれど、いろんな「編集」を知り、実践していくなかで、徐々に自分なりの「編集」を形作れるようになれたらいいなと思う。

「心の貧しさ」との向き合い方

先日、友人と話していて「心の貧しい人がたくさんいる」という話題になった。心の貧しい人とは、他人を受け入れる器が小さい人を指す。不愉快に感じたことを根拠も論理もなく攻撃したり、自分の非を認められず相手を勝手に悪者にしたりするような、自己中心的な人のことだ。

心の貧しさの原因は、多様性が認められにくい環境にあると思う。僕らは小さいころから同調圧力の中で育ってきた。周りと違った選択をすれば「お前はおかしい」と笑われ、常識に対して素朴な疑問をぶつければ「空気を壊すな」と怒られる。こんな環境では、違いを認め合う文化が生まれるわけがない。


さらに勉強ができなければ「自分はバカだから良い仕事には就けない」、勉強ができても「安定したいからリスクのあることはできない」と選択肢を狭めてしまうことも多い。自分のやりたいことを勝手に諦めて、勝手に押し殺してしまう悪しき慣習が日本には蔓延しているのだ。

だからこそ、自身が諦めた選択をほしいままにしている人が羨ましくて妬ましくなるのだ。「あいつはわがままで、傲慢な奴だ」といった理不尽な怒りをぶつけている人はよくいるが、あれは「自分はこんなに我慢しているのに!」というやり場のない本音が表れたものだろう。

そのため心を豊かなものにするためには、まず自分の非を認めなければいけない。これまでしてきた選択を、自分の責任にしていく必要がある。どんなに不遇な人生を送ってきたとしても、被害者面はもう止めなきゃいけない。

でもそれを丁寧に指摘しても、長年植え付けられてきた価値観はそう変わるものではない。そんな枝葉の問題を解決したところで、社会はそういう人を生み出し続ける。だからこそ僕らが本当に闘うべきは、そんな心の貧しさを生み出している社会なのだ。

いろんな価値観や生き方、文化があること知ってもらい、誰もが自分の好きな選択ができるような社会にしていくこと。彼らを皮肉ったり、馬鹿にしたりせず淡々と選択肢を提示して、応援していくこと。それこそが、僕らができる最大の解決策だと思う。

昔、関われなかった人たち

昔、関われなかった人たちがいる。自分があまりに幼くて、対等の立場で話ができなかった人。自信が持てず、話しかけられなかった人。自分の欲求ばかり優先して、避けられてしまった人。

そういう人たちと改めて関わろうとするのは、怖い。昔の弱かった自分が顔を出して、逃げ出したい気持ちになるし、これまで積み上げてきたものが、実は大したものじゃないと気付かされるんじゃないかと不安になる。できることなら、このまま一生関わりたくない。

しかし、そうも言っていられないのが人生のようだ。ここ最近、昔関われなかった人と関わることが増えた。それは自分が歩もうとしている道に当たり前のように現れ、突き付けられる分かれ道のようなもの。しかも、親切にも「楽な道」と「苦しい道」の標識が置かれているので、怖いのなら逃げることも可能だ。

だけどそんな恐怖にも勝る、大きな衝動があることを僕は知っている。僕は関わりたくないと思いながらも、関わっていたいのだ。弱くてもいいから、自分からは逃げないでおこうと。嫌なことから逃げてもいいから、自分のやりたいことには正直でいようと。ずっと前に決めたことなのだ。

だから苦しい道を甘んじて受け入れているのだが、なんてことはない。最初はぎこちなく始まった会話も、本来の自分のペースに落ち着き、いつもと何ら変わりなく会話ができる。今まで積み上げてきたものは決して無駄ではなかったことに気づく。

この業界に入ってもう2年たつ。昔は恐れ多くて関われなかった人たちも、今となっては一緒に仕事をするような間柄となった。これからも関われる人を増やしていくために、日々成長していきたい。

教育における性善説と性悪説

性善説を信じて任せるのか、性悪説を踏まえ厳しくするのか。教育においてこの議論は盛んに行われてきているが、そもそもこんな議論には意味がない。というのも、人には善の部分もあれば、悪の部分もあるからだ。もっと言えば、善の部分を活かしつつ、悪の部分を抑えるのが、教育の役割だからだ。

現状、日本の公教育は性悪説的なシステムで回っている。授業の内容は文科省によって決められ、生徒の主体性に任せることはない。あらゆる科目(道徳も含む)において画一的な正解を設定し、それ以外の答えを出す生徒は矯正していく。このモデルは一定水準の従順な人間を育てることには成功した。が、そうした人材が必要な時代はもう終わってきていることは、累積している課題を見ればわかるだろう。

だからこそ、文科省は「主体性」やら「思考力」やら「表現力」やら、もっともらしいことを並べ、教育改革だなんだと騒でいるのだ。しかし、現状の教育改革案を見る限りでは、結局表面的な制度を変えたり、科目を増やしたりするだけで、根本的な文化を変えようとする気概はほとんど見られない。本当に主体性を伸ばしたいなら、道徳の科目化なんてバカげたことは絶対しないし、生徒がある程度授業を決められるようにするし、判断・表現をする実践の場を求めていくはずだ。結局、文科省は生徒の「主体性」なんてものは信じていないのだ。

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上手くいっている組織は性善説で回っている。星野リゾートにしろ、Googleにしろ、会社のリーダーが最も重視しているのは、社員の主体性を最大限に引き出すことだ。社員が自分で課題を設定し、試行錯誤を繰り返し、改善できるようしていくこと。

toyokeizai.net

gendai.ismedia.jp


もちろんこれは、ただ任せてほったらかしにするような放任主義とは似て非なるものだ。ここを抑えないまま性善説で教育を行っても、上手くはいかない。当たり前のことだが、黙っていても人は主体性を発揮しないのだ。


リーダーは主体性の使い方を間違わないようにビジョンをしっかり提示しないといけないし、主体性が発揮されるための環境づくりをしていかないといけない。つまり性善説での仕組みづくるためには、ある種性悪説的な教育(人は任せただけで主体性を発揮しないという前提)が必要となるのだ。