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文法も構成も内容も気にせず、1時間で書くブログ

塾は本当に必要なのか?

スタディサプリ学びエイド、YouTuber講師など「スマホ授業」が増えている。もはや勉強は、対面で教えてもらうようなものではなくなっているのかもしれない。数年前までは「今でしょ!」なんて世間を賑やかしていた映像授業ですらも、もはや時代遅れになりつつある。
 
もちろん従来型の塾にもそれなりのメリットはあるだろう。勉強に取り組むための環境が用意されているし、同じく勉強に励む同世代の友人も作りやすいし、何かわからないことがあればすぐに先生に聞ける。
 
でも塾以外で、場作りや個別回答をしてくれるサービスが出てくればどうだろう? 
 
例えば、「勉強カフェ」のような自習スペース。現状は会社員の利用が多いが、これが中高生向けの場として広まれば、切磋琢磨できる友人も簡単に見つけられるだろう。
 
例えば、「manabo」のようなスマホ家庭教師。確かに先生に聞くよりかは時間がかかるかもしれないが、24時間質問できるのは塾ではなせない技だ。
 
こうして考えると、塾は本当に必要なのかと疑わしくなってくる。最近じゃ参考書の質も高く、1冊丸々使い込めばほとんど網羅できるものも多い。独学者向けに勉強法をわかり易く解説したサイトや本はたくさんあるし、勉強のスケジュールを管理するアプリもある。勉強スペースだけ借りて、スマホサービスを駆使すれば独学でも全く問題ない。
 
現状は「周りが塾に行っているから」「この塾は進学実績があるから」という理由で塾に行く人(行かせる親)は多いが、今後独学の流れは勢いを増していくはずだ。ともすれば、塾の役割自体が変容せざるを得ないだろう。人と人が関わる場だからこその強みを生かして、ブランドを作っていくほかないのではないか。
 
例えば、モチベーション管理。独学ではモチベーション管理はやはり難しい。モチベーションの源泉に気づいてもらったり、モチベーションを管理するスキルを教えたりするコーチングなどは今後必ず需要がでてくるはずだ。
 
モチベーション管理とリンクする点でいえば、進路指導なんかもそうだろう。幅広いキャリアを知り、個々の子どもたちに適したものを提示していく。ひょっとするとカウンセリングに近い部分もあるかもしれない。
 
ほかにも、視野を広げるための対話の場。学校では取り上げられない分野を取り上げて、いろんな意見や価値観があることを知る。自分の考えを深めていく。自己分析を習慣化させる環境もかなり重要になってくる。
 
と、こんな風に塾は従来型の「勉強を教える場」から「精神環境を整える場」になっていく。●●2.0みたいな言い方は嫌いだが、この塾2.0の流れは必ず出てくる。

自信を身につける方法

10代までに負った小さな傷が、ずっと残ったままの人は少なくない。仲の良かった友だちに突然にそっけない態度をとられたり、自分のコンプレックスを周りに指摘されたり、好きな人に裏切られたり。些細なことかもしれないが、これらの出来事は子どもにとって大きな意味を持ち、その後の成長にも大きな影響を与える。

残念なことに大人になると「さらけ出す」ことは、どんどん難しくなっていく。本当は自信がないのに強がってしまう人は多いし、必要以上に自分を取り繕って生きている人も案外多い。そんなバレバレの傷を隠しても辛いだけだとわかっていても、簡単には逃れられない。さらけ出せない自分に対して、余計に虚しさを感じてしまうというのに、なんて皮肉なジレンマだろうか。

恐らくこれを書いた人も、子どもの頃に負った小さな傷が癒えぬまま大人になったのだろう。感情がそのまま文字になったような文章で少し揺さぶられた。

「人に変な風に見られたくない」「人がこわい」と思うようになりました。
自分の中では「そんな昔のこと気にしていないよ!」と高を括っているつもりでした。しかし、自分に注目が集まる場面で顔が真っ赤になってしまう、声が震える、ときには泣いてしまうなど『普通じゃない』自分がいる事に気付きました。
私は人に嫌われたくない『良いかっこしい』の自分が小学生のときから消えないまま図体だけが大きくなってしまったのだな思いました。

引用元:“自分”が無い私


面白いことにちょうど同じ日に、この投稿の答えとなるような投稿も見られた。

私は恐ろしく自己評価の低い人間だった。周りの目最優先で行動を決めていたし、全てにおいて「私にはできない」と思っていた。
 
そして、心のバランスはあっという間に崩れた。20数年の人生における節目節目で心の崩壊現象は起こり、特に思春期は悩まされた。
 
20代になってもそれは再び起きたため、当時初めてできた相談相手に心の裡を恐る恐る明かした。するとその人はこう言った。
 
「何でもいいから、成果を可視化しろ。読書記録でも、映画記録でも、そんなんでいいから」

(中略)

1つ1つ記録していって、10、20、30と増えていくと「私はこんなに見てきたんだ」と自信を持って思えた。今まで何となく読書好き、映画好きと思っていたが、その根拠ができたのだ。
 
今までの「何もできないダメな私」の根拠より、見重ねてきた本や映画の記録という根拠の方がしっかりしていた。何もない人間に、何かができた。こんな小さなことで、私はわずかながらに自信を持てた。

引用元:自分を認める方法


 「記録を残して成果を可視化する」。これは自分の経験を省みても、とても重要なことだと思う。もちろん根拠のない自信を持つことは大事だが、元から自信を持たない人に「根拠のない自信を持て!」といったところで何も変わらない。彼らにはわかりやすい成功体験が必要だ。朝早く起きるでも、毎日5分間日記を書くでも、どんな些細なことでもいいから一つひとつ積み上げていく、そしてそれらを目に見える形で残していく、そういうことが自信を取り戻すためには必要不可欠なのである。

自信というのは筋肉のようなものだ。使うほどに膨らんでいくし、使わないほどに衰えていく。ある意味、一生鍛え続けなきゃいけないものなのかもしれない。もちろん鍛えていく過程において、自分との対話の仕方も重要になってくる。「決めたことができない私って本当にダメな人間」なんてことを思う人はダメな人間になっていくし、「今回はできなかった。じゃあ次にどう生かせるか」という風に考えられる人は成長していける。

だから、自分と交わした小さな約束を守り続けること、その証を目に見える形で残していくこと、そして、自分との建設的な対話を習慣づけることが自分を信じる力=自信を身につけていく上では欠かせないのではないだろうか。

なぜ、「すごい教育者」のSNSには内容がないのか?

「教育者としてこの人はすごい!」と思える人ほど、SNSをやっていなかったり、やっていたとしても内容のない(のほほんとした、どうでもいいような)ことばかり書いていたりする。これは統計の類は一切取っていない完全なる主観だ。実際は違う可能性もあるかもしれない。が、これまで僕が出会ってきたすごい教育者(5人)には、総じてその傾向があった。

そもそも「すごい教育者」とは何か。その定義は多分、僕と他人の間でだいぶ乖離があるだろう。僕が考える「すごい教育者」とは、心の底から相手を尊敬できる人を指す。相手の存在を認め、受け入れることができる人といえば、わかりやすいかもしれない。だから、「進学実績が〜」とか「〜大学教育学研究科の教授」とか「子どもをハーバードに入れました」とかそんな数値や肩書、実績はほぼ関係ない。

この定義で考えていくと、彼らのSNSに内容がないことに合点がいく。彼らは「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」と意地悪な小姑のような粗探しをしないのだ。相手のことを不用意に否定したり、評価したりしないし、恐らく細々と人の心理を読み解くような真似もしない。人間や社会を斜めから見て、ラベリングしていく意識がそもそも低いのだ。それゆえに、投稿する内容にのほほんとしたものや、どうでもいいことが多くなるのではないだろうか。

語弊が生じないように書いておくと、「粗探しが上手い人=教育に向いていない(SNSが面白い)」というわけではないし、その逆もまた然りだ。ただ、粗探しが上手い人は論理的に相手の考えを整理したり、問題の解決方法を示したりするのは得意な一方で、感情的に相手の内面を引き出したり、モチベーションを上げたりするのは苦手な嫌いがあるのではないか、とは思う。

要は使い分けなのかもしれないが、後者タイプの教育者を採用したいのならSNSは1つの試金石として、チェックしておくのも面白いかもしれない。もちろん、それが全てではないが。

LGBTsを「気持ち悪い」と思うことは悪ではない

学生時代、仲の良い友人がゲイだった。彼から何度も告白されたが、生粋ストレートだった僕はその全てを払い除けてきた。その当時は「LGBT」なんて言葉はまだ誰も知らなかったし、性的マイノリティの存在もさして話題になっていなかった。むしろ、「ゲイ」はIKKOやおすぎ、ピーコのような「オカマ」を指すものだという認識も強く、友人同士で「あいつゲイじゃないか?笑」みたいにネタにして遊ぶようなものだった。

そんな風な認識しか持ち合わせていなかったから、僕は彼を避けるようになった。過度に話したがり、会いたがり、反応を求めたがる彼に対して、ある種の恐怖すら感じていたし、純粋に気持ち悪いと思っていた。

しかし元をたどれば、彼は僕の親友である。彼以上に気の合う人も、僕の内面を理解している人もほとんどいない。同じ組織に入っていたこともあるので、できることであれば普通に話したいとも思っていた。だから、「ゲイだから差別しよう」などという意識は一切なかった。

ただ、どうすればいいかわからなかった。自分に好意を寄せ、アプローチしてくる友人に対し、気持ち悪さを感じている以上、当時の僕には拒絶するほか選択肢がなかったのだ。結局3年以上もの歳月を掛けて、ようやく適切な距離の保ち方を理解した。

それから数年、僕は大学でジェンダーについて学んだり、いろんな人と会って話したりして、性的マイノリティに対する理解や知見を深めていった(もちろん、まだまだ誇れるようなものではないが)。世間では性的マイノリティに関する書籍や団体、イベントも増え、だいぶ認識は変わってきた。

しかしその一方で、彼らに気持ち悪さを感じてしまう人も一定数いると思う。頭ではわかっていても、実際に自分がその当事者になると話は別だ。特に過去に同性からわいせつ行為を受けたことがある人はその嫌いが強いはずだ。これはもう仕方のないことだ。

性的マイノリティにおける最大の問題は、圧倒的な知識・経験不足だ。「普通は異性を愛するものだ」という認識が根強い現状では、実際にどう対応すればいいかわからない人が大多数だろう。本人は相手を全く傷つけようとは思っていなくても、結果的に言動や態度が自然に差別的になってしまうことも大いにある。かつての僕のように。

だから、LGBTs差別の撲滅を訴える上で最も大切なことは、「LGBTsを気持ち悪いと思う心は邪悪だ。あらゆる性を別け隔てなく受け入れるべきだ」ではなく、「現状では受け入れられないこともあるかもしれない。でも、これから受け入れようとする努力はしていこう」という姿勢ではないかと思う。この姿勢がない限りは結局、どんなに情報を広まろうが、どんなに認識が高まろうが意味がない。なぜなら、「受け入れられない層(ある種の性的価値観)に対する差別」が生まれるからだ。性的マイノリティを守るための主張が他人の性的価値観を差別してしまうのだから、当然自分たちの性も受け入れられるわけがない。事実から目を背けて語る理想は単なる空想でしかないのだから、しっかりその事実とは向き合うべきなのだ。

世の中にはさまざまな性がある。その一つひとつに理解を示し、受け入れることなんてそう簡単にできることではない。だけど一つひとつの性があることを理解し、それらの存在を尊重することはできるのではないだろうか。かつて気持ち悪いと思っていた僕でも、ある程度はできるようになったのだから。

「普通の人」という表現は使っていい

「普通の人」という表現を使わないようにしている。 

先日書いた「「社会不適合」ってなんだろう?」でも、「普通の人」という表現は使わず、「なんでも卒なくこなし、上手に世を渡っていく社会適合者」としている。というのは、世の中には「普通の人」なんていないからだ。普通に見えていても、一人ひとりちゃんと見ていけば、それぞれに個性もあって、抱えている問題もあって、成し遂げたい目標もあったりする。僕は教育とメディアに関わる人間として、多様性を大切にしていきたい。 

と、ついこの間までは思っていた。しかし最近は「普通の人」という表現も使っていいと思えるようになってきた。そんなものは定義によって変わるし、ある人にとっては「普通の人」は確かに存在するからだ。それに「普通の人」という発言に過敏になって、揚げ足を取るようなマネをするのはどこか違う。言葉に気を遣うことは大切なことだが、言葉狩りのようなことまでしてしまうと窮屈で息苦しい。「普通の人、いや普通の人なんていないんだけど、仮に〜」という風にいちいち定義が必要となると、かえって多様性が失われていく気がする。

これと同じような話題は、特にジェンダーの分野では盛んだ。「男」「女」ではなく「男性」「女性」、相手に彼氏(彼女)がいるか聞くときは「彼氏(彼女)いる?」ではなく「恋人いる?」、男性がお弁当を作ってきたときは「愛妻弁当?」とは聞いてはいけないし、自分で作ったときに「(女子力が)すごい」とは言ってはいけないなどといった具合に。

もちろん、より多くの人にフィットする適切な言葉は積極的に使うべきだとは思う。が、これらの言葉を絶対的に使うべきだとは思わないし、ましてや押し付けようなどとも思わない。重要なのはただ淡々と言葉と、その言葉を届ける人に注意を払い、表現していくことだ。「私は言葉に気を遣っている」と自負し、攻撃的になる人ほど、どこか偏見的でその言葉の先にいる人を見ていないし、攻撃相手のことを理解しようとしていない気がする。

その結果なのかジェンダーの話題では、性的マイノリティVS性的マジョリティ、差別する男性VS差別される女性なんて構図が多い。でもそうやって争っているうちは、議論は全く先に進まない。少なくとも、建設的な議論にはなりづらい。むしろ、そういった論争や攻撃的な人たちを見て、ジェンダーの話を避けたり、辟易したりする人は増えてきているように思う。

僕らには知らないことが多すぎる。男性の視点と女性の視点やノンケの感覚とLGBTsの感覚、日本の常識と世界の常識など一人ひとりが見ている世界は全く異なる。だから「これだから男は……」「女は家に居るべきだ」「男なんだから男らしくあるべきだ」「これが常識だから」などとさもそれが正解であるかのように表現し、押し付けてしまうのだ。これはある意味仕方のないこと。

だから自分が見ている世界こそが全ての世界であり、正解だと思いこんでいる人がいたとしても、「ほかの世界もあるよ、いろんな正解があるんだよ」と伝えていくことが、最も重要なことではないかと思う。過度に攻撃的になるんじゃなくてね。

「社会不適合」ってなんだろう?

僕の周りには自称「社会不適合者」が多い。学校や会社に適さず、引きこもってしまう人や日本という環境に適さず、海外に行ってしまう人など、彼らは確かに不適合なところが多いかもしれない。僕自身も社会不適合者だと言われても仕方ないような人間だけど、だからといって悲観的になることもない(というか、もうその時期は終わった)し、不適合なりに自己分析して視野を広げてみれば、適合できる場は少なからず見つかった。
 
社会不適合者を自称する人はたぶん自分に合う人、もの、場にまだ出会えていないか、あるいは、その数が少ないだけな気がする。確かになんでも卒なくこなし、上手に世を渡っていく社会適合者と比べれば、僕らの置かれている状況はフェアではない。でも、そんなのは最初からわかりきったことだし、仮にそこに対する恨みや妬みを捨てきれないのであれば、自分が社会を変えるくらいがんばればいいだけのこと。
 
社会不適合者はいま目の前にある社会に適合しようとがんばる必要は一切ない。というか、向いていない社会に一生懸命適応しようとするから「社会不適合」なのであって、向いている社会に行けば、その苦しさはかなり解消されると思う。苦しさの原因は、単にいろんな選択肢があることを知らないだけか、自分のことをわかっていないかのどちらかだ。
 
もちろん既に社会的な人間として生きていくのがキツイ状況にある人(例えば、うつ病であらゆることに対して無気力な人や対人恐怖症で人と関わることが難しい人)もいる。その人たちに対して、全く同じことを言うつもりはないが、「社会不適合」を自称することで被害者面している人は多いように思う。それだったら、自分の置かれている状況をちゃんと把握して、今後どうしていくべきかを考えたほうがいい。もし、考える時間が必要なのであれば別に立ち止まってもいい。1年や2年周りから遅れたところで、大して生きづらくなるわけでもないのだから。

性教育の問題は「いつ教えるか」ではない

性教育の問題を語るとき「中学生にはまだ早い」とか「小学生から教えるべきだ」とか「いつ教えるか?」に焦点がいきがちだ。しかしそんなことは、あまり重要な問題ではないように思う。というのも少なくとも僕の周りで、小学生の頃にエロ本読んで何かが狂ったとか、性に関わることを学んでトラウマになったという話は聞いたことがないし、実際に性教育を行うことで中絶率が下がるという研究も出ているからだ。
 
 
僕自身、性の目覚めが本当に遅くて、小学6年生のときに女の人に穴が2つあることを知った口だ。どうすれば子どもが生まれるかについては、中学2年生のときに知った。今思うと本当にありえないことだが、僕にとっては保健の授業で教えられる「マスターベイション」は想像もつかない行為だったし、お年頃の馬鹿な男子どもによってネタにされるだけの単語でしかなかった。
 
でも実際に、AV=SEXの教科書と捉えている男性は20歳を超えても多いし、そもそも正しいSEX(そんなものはないのだろうけど)なるものを教わる場なんて皆無に等しい。間違ったオナニーの仕方をしていたために、射精障害を持つ男性も少なくないし、ロクな知識を持たないために、避妊しない人も呆れるほど多い。
 
 
性に関する知識の少なさや意識の低さから、さまざまな問題が生じているというのに、まだ「寝た子を起こすな」などと言う人は、大方性について教えようという気概もなく、「臭いものに蓋を」の精神で問題を先送りにしたいだけだろう。
 
だから、性教育における問題とは「いつ教えるか」ではなく、「どう教えるか」なのだ。まだ精通も初経も経験しておらず、感覚が伝わりづらい小学生には、どうすればわかってもらえるか。性に関する興味関心が高まり、ある意味センシティブな時期の中学生には、どうすれば正しい理解と意識を持ってもらえるか。性に関する出来事がもはや身近なものとなっている割合が多い高校生には、どうすればより良い性との付き合いを築いていけるか。といった具合に。
 
そもそも僕ら人間、いや、生物にとって、性は切っても切り離せないものだ。それをわざわざ隠すことで、性を神聖なものや恥しいもの、汚らわしいものなどに変えてしまっている人はかなり多い。性は性でしかない。当たり前のように僕らについて回るものなのだから、ちゃんと向き合って、自分自身や他人との関係において、より良い性が何かを探っていくことこそが大事だ。
 
※便宜上、性教育=男女の性交渉や避妊とし話を進めているが、LGBTなどの性的マイノリティやジェンダーに関わる問題も、もちろんここに含まれる。またこれは、学校だけでなく、家庭においてもしっかり教育されるべきことである。