ふむふむ

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「普通の人」という表現は使っていい

「普通の人」という表現を使わないようにしている。 

先日書いた「「社会不適合」ってなんだろう?」でも、「普通の人」という表現は使わず、「なんでも卒なくこなし、上手に世を渡っていく社会適合者」としている。というのは、世の中には「普通の人」なんていないからだ。普通に見えていても、一人ひとりちゃんと見ていけば、それぞれに個性もあって、抱えている問題もあって、成し遂げたい目標もあったりする。僕は教育とメディアに関わる人間として、多様性を大切にしていきたい。 

と、ついこの間までは思っていた。しかし最近は「普通の人」という表現も使っていいと思えるようになってきた。そんなものは定義によって変わるし、ある人にとっては「普通の人」は確かに存在するからだ。それに「普通の人」という発言に過敏になって、揚げ足を取るようなマネをするのはどこか違う。言葉に気を遣うことは大切なことだが、言葉狩りのようなことまでしてしまうと窮屈で息苦しい。「普通の人、いや普通の人なんていないんだけど、仮に〜」という風にいちいち定義が必要となると、かえって多様性が失われていく気がする。

これと同じような話題は、特にジェンダーの分野では盛んだ。「男」「女」ではなく「男性」「女性」、相手に彼氏(彼女)がいるか聞くときは「彼氏(彼女)いる?」ではなく「恋人いる?」、男性がお弁当を作ってきたときは「愛妻弁当?」とは聞いてはいけないし、自分で作ったときに「(女子力が)すごい」とは言ってはいけないなどといった具合に。

もちろん、より多くの人にフィットする適切な言葉は積極的に使うべきだとは思う。が、これらの言葉を絶対的に使うべきだとは思わないし、ましてや押し付けようなどとも思わない。重要なのはただ淡々と言葉と、その言葉を届ける人に注意を払い、表現していくことだ。「私は言葉に気を遣っている」と自負し、攻撃的になる人ほど、どこか偏見的でその言葉の先にいる人を見ていないし、攻撃相手のことを理解しようとしていない気がする。

その結果なのかジェンダーの話題では、性的マイノリティVS性的マジョリティ、差別する男性VS差別される女性なんて構図が多い。でもそうやって争っているうちは、議論は全く先に進まない。少なくとも、建設的な議論にはなりづらい。むしろ、そういった論争や攻撃的な人たちを見て、ジェンダーの話を避けたり、辟易したりする人は増えてきているように思う。

僕らには知らないことが多すぎる。男性の視点と女性の視点やノンケの感覚とLGBTsの感覚、日本の常識と世界の常識など一人ひとりが見ている世界は全く異なる。だから「これだから男は……」「女は家に居るべきだ」「男なんだから男らしくあるべきだ」「これが常識だから」などとさもそれが正解であるかのように表現し、押し付けてしまうのだ。これはある意味仕方のないこと。

だから自分が見ている世界こそが全ての世界であり、正解だと思いこんでいる人がいたとしても、「ほかの世界もあるよ、いろんな正解があるんだよ」と伝えていくことが、最も重要なことではないかと思う。過度に攻撃的になるんじゃなくてね。