仕事の質を上げるために始めたこと
問題を分析してみると、①悩む時間が長い、②文章の構成が即座にできない、③集中し続けられない、④あまり学習能力が高くない(知識の応用ができない)、⑤口頭だと論理的に話せないといった点が挙がった。
これらの問題を解消すべく、6月に入ったあたりから以下のこと始めることにした。効果はこれからの楽しみ。
ゼロ秒思考
1時間ブログ
そこで1時間という制約を設け、文法も構成も内容も気にしないブログ記事を書いていくことにした。これはこれから平日1本更新していく予定で、常日頃からネタを探す習慣作りにもなるかなと思う。
リフレクション(振り返り)
先日取材した個別指導塾「Withdom」が提唱していた、リフレクション(振り返り)。Withdomでは、KPT(Keep=良かったこと、Problem=改善したいこと、Try=次に試すこと)を指標とし、日々生徒に振り返りをしてもらっている。日頃の業務で手一杯になってしまって、振り返りができていないなと痛感したので、これを見習うことにした。方法に関しては、昨日書いたこちらの記事を参照。
筋トレ
人と会うこと
そのためにはもっと色んな人に会って話をする必要があるなと思い、ここ最近はサシ飲みに誘ったり、誘われたりしている。某有名編集者は自分のブログでサシ飲み相手を募集していたことを聞いて、自分もそういうものがもっと必要だよなと感じさせられた。
漫然としたタスク管理をやめるために
タスク管理の仕方をここ2週間ほどで変えた。これまではTrelloで、「すぐやること」「つぎやること」「あとでやること」「誰かに依頼していること」「特定の日付でやること」のカードを作ってタスク管理をしていた。
タスク漏れはほとんどなかったし、使い心地も悪くはなかったのだが、問題意識も感じていた。それは今の仕事(ライター)は長期に渡るタスクが多く、僕の執筆スピードが遅いこともあって、日々の進捗があまり見えにくいことだ。また日々漫然とタスク処理をしていくだけになっていて、一つひとつのタスクについて振り返りができていないこともそうだ。
どうにか良いタスク管理の方法がないかと考えていたところ、たまたま取材した塾が学習管理アプリを出していることを知った。そのタスク管理アプリでは、KPTという指標を導入していた。KPTとは、Keep・Problem・Tryの頭文字を取った用語で、Keep=続けたいこと、Problem=改善したいこと、Try=次に挑戦してみたいことを指す。
このKPTを取り入れて振り返りをしつつ、日々の進捗が見えるような形でタスク管理表を作れば良いのではないか。そう思い、以下のようなものを作ってみた。
使用しているのは「MiniNote」というメニューバー常駐アプリ(Mac)。これに日毎のタスクを入力し、仕事終わりにKPTを書いていくというシンプルな作りだ。タスクには「絶対にできること」「きっとできること」「できたらすごいこと」という肯定的な表現を使うことで、自己肯定感を高めようという狙いがある。完了したタスクの右側に●を付けて、その日の進捗が見えるようにしている。
まだ初めて2週間も経っていないので、効果らしい効果は実感としてはないが、今のところタスクの漏れもないし、使い心地も悪くない。形骸化させないように工夫はしていく必要はあるが、毎日振り返りをしていけば、数ヶ月経つ頃にはかなりの知見が溜まっているような気もする。
ひとまずこれを試行錯誤しつつ使っていき、どのくらいの効果があるのかは見ていきたいなと思う。
以下、取材した塾です。
配慮のような不寛容、寛容のような無関心
ここ最近Twitterを眺めていて、配慮のような不寛容が多く見られる。例えば、先日起きた大阪での震災。被災された方々が大変な状況下では、サッカーで盛り上がることもいけないことらしく、「不謹慎だ」と批判する人(いわゆる、「不謹慎厨」)も見られた。
相手の気持ちを推し量って、言動を選ぶことはとても重要なことだ。だけど、誰の気持ちも推し量っているわけでもなければ、実際に当事者に聴いたわけでもないのに、「配慮」という大義名分の下で、誰かを攻撃するのはおかしい。彼らの主張を観察していくと、大半が自分がただ気に食わないだけだったりする。
不謹慎厨の不寛容さを顧みるに、寛容さはとても大切な要素に思える。というのも、SNSはいろんな価値観があらわになる場だからだ。自分の好きなものが誰かにとって嫌いなものだということは大いにあるし、その逆もまた然り。それぞれの好き嫌いを対立させ、争うことも多々ある。
しかし寛容なように見えて、実は無関心なだけのこともある。そういう無関心さもときに大きな争いを生む(「●●もわからないなんてありえない!」みたいな批判をよく見ないだろうか)ので、健全とは言えない。僕らには相手の意見や存在に関心を持ち、認め、受け入れていく器が必要だ。
こうして考えていくと、一見すると相反しそうな配慮と寛容は、ある点では全く同じ要素を持ち合わせている。それは「相手への思いやり」だ。配慮は相手の気持ちを推し量ること、寛容は相手の意見や存在に関心を持つことから始まる。配慮と寛容の根本を理解すれば、その両方はバランスよく持てるはずだから、不謹慎だと叫ぶ人や無関心な人はぜひ考えてみてほしい。
僕は震災から学べない
津波が来たときに避難できる高台を知っているだろうか?
この質問に答えられる人は多くはないかもしれない。かくいう僕もこんな記事を書いておきながら、今住んでいる地域の避難場所を知らない。まともに荷物を置くスペースもないシェアハウスに住んでいることもあって、非常食も置いていない。
熊本震災から2年、東日本大震災から7年、新潟中越地震から14年、阪神淡路大震災から24年。地震大国である日本ではこの数十年で数多くの震災に見舞われてきた。世間では震災に対応するための情報や機器、機関は増えてきている。けれど、人々の意識は依然として変わらないところも多いように思える。
良い子ぶって震災の恐怖を語るつもりはない。僕は24年の人生において震災を体験したことがないし、実際それがどれほど大変なものか想像ができない。僕はなかなか学べない。すぐに忘れてしまう。
だからせめて、今からでも学ぼうと思う。「あ、忘れてしまっていたな」と気付いたら、思い出そうと思う。
塾は本当に必要なのか?
自信を身につける方法
10代までに負った小さな傷が、ずっと残ったままの人は少なくない。仲の良かった友だちに突然にそっけない態度をとられたり、自分のコンプレックスを周りに指摘されたり、好きな人に裏切られたり。些細なことかもしれないが、これらの出来事は子どもにとって大きな意味を持ち、その後の成長にも大きな影響を与える。
残念なことに大人になると「さらけ出す」ことは、どんどん難しくなっていく。本当は自信がないのに強がってしまう人は多いし、必要以上に自分を取り繕って生きている人も案外多い。そんなバレバレの傷を隠しても辛いだけだとわかっていても、簡単には逃れられない。さらけ出せない自分に対して、余計に虚しさを感じてしまうというのに、なんて皮肉なジレンマだろうか。
恐らくこれを書いた人も、子どもの頃に負った小さな傷が癒えぬまま大人になったのだろう。感情がそのまま文字になったような文章で少し揺さぶられた。
「人に変な風に見られたくない」「人がこわい」と思うようになりました。自分の中では「そんな昔のこと気にしていないよ!」と高を括っているつもりでした。しかし、自分に注目が集まる場面で顔が真っ赤になってしまう、声が震える、ときには泣いてしまうなど『普通じゃない』自分がいる事に気付きました。私は人に嫌われたくない『良いかっこしい』の自分が小学生のときから消えないまま図体だけが大きくなってしまったのだな思いました。引用元:“自分”が無い私
面白いことにちょうど同じ日に、この投稿の答えとなるような投稿も見られた。
私は恐ろしく自己評価の低い人間だった。周りの目最優先で行動を決めていたし、全てにおいて「私にはできない」と思っていた。そして、心のバランスはあっという間に崩れた。20数年の人生における節目節目で心の崩壊現象は起こり、特に思春期は悩まされた。20代になってもそれは再び起きたため、当時初めてできた相談相手に心の裡を恐る恐る明かした。するとその人はこう言った。「何でもいいから、成果を可視化しろ。読書記録でも、映画記録でも、そんなんでいいから」(中略)
1つ1つ記録していって、10、20、30と増えていくと「私はこんなに見てきたんだ」と自信を持って思えた。今まで何となく読書好き、映画好きと思っていたが、その根拠ができたのだ。今までの「何もできないダメな私」の根拠より、見重ねてきた本や映画の記録という根拠の方がしっかりしていた。何もない人間に、何かができた。こんな小さなことで、私はわずかながらに自信を持てた。引用元:自分を認める方法
「記録を残して成果を可視化する」。これは自分の経験を省みても、とても重要なことだと思う。もちろん根拠のない自信を持つことは大事だが、元から自信を持たない人に「根拠のない自信を持て!」といったところで何も変わらない。彼らにはわかりやすい成功体験が必要だ。朝早く起きるでも、毎日5分間日記を書くでも、どんな些細なことでもいいから一つひとつ積み上げていく、そしてそれらを目に見える形で残していく、そういうことが自信を取り戻すためには必要不可欠なのである。
自信というのは筋肉のようなものだ。使うほどに膨らんでいくし、使わないほどに衰えていく。ある意味、一生鍛え続けなきゃいけないものなのかもしれない。もちろん鍛えていく過程において、自分との対話の仕方も重要になってくる。「決めたことができない私って本当にダメな人間」なんてことを思う人はダメな人間になっていくし、「今回はできなかった。じゃあ次にどう生かせるか」という風に考えられる人は成長していける。
だから、自分と交わした小さな約束を守り続けること、その証を目に見える形で残していくこと、そして、自分との建設的な対話を習慣づけることが自分を信じる力=自信を身につけていく上では欠かせないのではないだろうか。
なぜ、「すごい教育者」のSNSには内容がないのか?
「教育者としてこの人はすごい!」と思える人ほど、SNSをやっていなかったり、やっていたとしても内容のない(のほほんとした、どうでもいいような)ことばかり書いていたりする。これは統計の類は一切取っていない完全なる主観だ。実際は違う可能性もあるかもしれない。が、これまで僕が出会ってきたすごい教育者(5人)には、総じてその傾向があった。
そもそも「すごい教育者」とは何か。その定義は多分、僕と他人の間でだいぶ乖離があるだろう。僕が考える「すごい教育者」とは、心の底から相手を尊敬できる人を指す。相手の存在を認め、受け入れることができる人といえば、わかりやすいかもしれない。だから、「進学実績が〜」とか「〜大学教育学研究科の教授」とか「子どもをハーバードに入れました」とかそんな数値や肩書、実績はほぼ関係ない。
この定義で考えていくと、彼らのSNSに内容がないことに合点がいく。彼らは「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」と意地悪な小姑のような粗探しをしないのだ。相手のことを不用意に否定したり、評価したりしないし、恐らく細々と人の心理を読み解くような真似もしない。人間や社会を斜めから見て、ラベリングしていく意識がそもそも低いのだ。それゆえに、投稿する内容にのほほんとしたものや、どうでもいいことが多くなるのではないだろうか。
語弊が生じないように書いておくと、「粗探しが上手い人=教育に向いていない(SNSが面白い)」というわけではないし、その逆もまた然りだ。ただ、粗探しが上手い人は論理的に相手の考えを整理したり、問題の解決方法を示したりするのは得意な一方で、感情的に相手の内面を引き出したり、モチベーションを上げたりするのは苦手な嫌いがあるのではないか、とは思う。
要は使い分けなのかもしれないが、後者タイプの教育者を採用したいのならSNSは1つの試金石として、チェックしておくのも面白いかもしれない。もちろん、それが全てではないが。